れびゅ その1『永遠の0』※ネタバレ注意

木内ハジメ(デザイナー、イラストレーター)
オンラインゲームを与えないでください

映画、アニメ、小説、漫画、サバゲーまで、ありとあらゆる物をレビューしていこうというのが、この「れびゅ」でございます。

記念すべき第1回は「永遠の0」についてレビューしたいと思います。
今話題の映画と言ったらこれでしょう。
実は僕は邦画を映画館で観るというのが実に10年以上ぶりでした。
「予算の少ない日本の映画なんて、大したもんじゃないだろう」なんて傾いた考えを持っていた時期が僕にもあったわけです。
まぁその影響で今でも邦画はレンタルビデオ屋で観るのが通例になってしまっているわけですが。
そんな僕がわざわざ誰に頼まれるでも誘われるでもなく自発的に映画館に足を運んだというのは、とても珍しいことです。それだけ話題になっているんですね。
それと加えて僕は「太平洋戦争」という戦争に強い関心があるんです。なぜかは分かりません。あの戦争があったからこそ今の日本があるんじゃないかな、と言ってしまうのは不謹慎でしょうか?
事実、戦後日本の復興はとてつもない早さと品質を持ち合わせています。平和を誓い、専守防衛を訓示に掲げる矛盾した軍隊を持ちながらそれを軍隊と認めず、うんたらかんたら。
語りだしたらきりが無いので、思想的なことはここらへんで区切らせていただきまして、本題に入っていこうかなと思います。

「永遠の0」。とても良い作品だと思います。
はっきり言ってしまうと、僕は全く期待をしておりませんでした。そのおかげでさらに良く見えてしまったのかもしれません。
しかし、二つだけ言えるのは「小説を読んでいないとしっかり理解できないんじゃないかな?」という部分が多かったのと、「やはり小説を読んでから映画を見ると、どうしても小説が勝ってしまう」という部分ですね。
「映画と小説、どっちが面白かった?」と聞かれたら「圧倒的っ! 小説っ!」と答えてしまうでしょう。
だから、映画を観て感動した方は、是非とも小説を読んで頂きたいですね。何倍もの知識と涙腺崩壊シーンが満載されております。是非是非。是非是非是非。読んでください。読んだ方がいいですよ。読まないと始まらないですよ。もう読んじゃいましょうよ。んー。もう読め。いいから1000円札握りしめて本屋に行って、店員さんに「永遠の0くださいっ」って頼みなさい。

よし。じゃあ読んだ体で始めましょうか。

おさらいのあらすじ。
まず、物語は零戦による神風特攻がいかに無力であったかというところから始まります。
アメリカ艦隊の激しい対空砲火の中で、攻撃目標であるアメリカ空母まで到達できる日本の零戦はほぼゼロに等しかった、と。
物語はインタビュー形式で進みます。インタビュー形式で構成された映画というのは、かの有名な宮部みゆき先生の「理由」以来ですね。あれも名作でした。原作もさることながら、映像も非常に良い出来でした。
話がそれたので戻します。
自分の祖父が実は実の祖父では無く、本当の祖父は特攻で命を落とした。その事実を知ったことがきっかけとなり、ジャーナリスト志望の主人公の姉が祖父を知る人間にインタビューを始める、という所から主人公とその姉の「祖父を知る旅」が始まります。
特攻隊員として死んだ祖父のことなのだから、いかにもな軍国青年で、勇猛果敢な人間だったのかと思いきや、インタビューを始めると皆が口を揃えて「宮部久蔵は臆病者でした」と語ります。「宮部久蔵」というのが祖父の名前です。
確実に勝てる戦いしかせず、前後不覚となる乱戦からは遠く離れて逃げ回るだけの、本物の臆病者だった、と。
聞けば聞くほど祖父のイメージは悪くなっていきます。いつも「生きて帰りたい」と言うのが口癖であったと。
周囲が自分の命と引き替えにしてまで敵艦を沈めてやる、という気概の中、宮部だけは違っていた。何故か。
「何故宮部さんは命を惜しむのですか」そう聞かれると宮部は怒るでもなく、それが当然であるかのように「内地に家族があるからです」と答えます。
「そのような兵隊はたくさんいます。彼らは命を惜しんでおりません」そう聞かれても、宮部は譲りません。
「私一人が命を捨てて敵艦1隻を沈めたところで戦況は変わらない。しかし私一人がいなくなるだけで家族は路頭に迷ってしまう。私は生きて戦争を終えて帰りたいのです」
そう語る。
宮部の生への執着は、度を超して強かったのです。
愛する家族の為に、自分は必ず生きて帰る。
そして、それは自分だけでなく、兵隊全員がそうあるべきだと考えていました。
部下に対しても上司に対しても「生きろ」と語るのです。
そんな中「十死零生の特別攻撃」が立案されます。いわゆる「特攻」です。
隊の中で一枚の紙が配られます。そこにはこう書かれていました。
「特別攻撃を希望する」「希望しない」。隊によっては「熱望する」という項目すらありました。
殆どの人間が「希望する」としている中、宮部は「希望しない」という項目を選びました。
「貴様には帝国軍人としての誇りが無いのか」と罵られ、卑下されても宮部は譲りません。
「十死零生というのは作戦では無い。九死一生ならまだ戦える。しかし十死零生は駄目だ。こんなものは作戦とは呼べない」宮部は語ります。
戦況は日本の圧倒的不利。終戦も間近と目される中、ここで命を捨てるのは間違っている。
そう言い張り、譲らない。
飛行機の操縦に関しては右に出る物がいないと評価される宮部は、結局、特攻に向かう飛行隊の直援機に指名されます。直援機というのは、特別攻撃を仕掛ける飛行機を守る飛行機のことです。
目の前で無意味な特攻が繰り返される内、宮部は疲弊していきます。まだ10代の若い学徒兵がたった1年足らずの訓練で特攻を敢行する。そしてその殆どが失敗に終わる。
宮部は追い詰められていきます。「生きるべきが死んで、死ぬべきが死んでいない」そう考えるようになっていきます。
「自分は生きるべき人間なのか。死ぬべき人間なのか」自分との葛藤の末、宮部はついに特攻を希望してしまいます。
あれだけ「生きて帰る」という事に固執していた宮部すら特攻を希望するようになってしまう。狂った世界です。
そして宮部は特攻隊員となり、敵艦への攻撃を敢行します。

あらすじはここまで。

さて。それじゃあ質問します。
あなたはその状況にあって、命を投げ出すことが出来るでしょうか?
今の自分が戦時中にタイムスリップしたと仮定してみて下さい。
あなたは、国の為に死ねますか? あるいは愛する人を守る為に。

死ねますか?

もちろん、今と昔とでは思想や文化も違いすぎます。咄嗟に答えることは難しいと思います。それでもあえて聞きます。
事実として、特攻をしても日本の敗戦は確実であるという状況において、

あなたは死ねますか?

僕? どうでしょう。分かりません。しかし一度の特攻において、自分の人生は消えて無くなります。あなたはただの肉片となって四散します。

「生きたい」と思うことは間違った思想だったのでしょうか?
宮部久蔵の生き方は、間違っていたと言えるのでしょうか? ただの臆病者だったのでしょうか?
宮部は特攻で死にました。
そして、特攻の成否も分からないまま「永遠の0」の世界へと旅立ちました。
「旅立ち」。その言葉すら否定されるような「0」の世界。
何も無い。続かない。戻らない。進まない。想像を絶する世界。

悲しい話です。
「永遠の0」の中で「特攻隊員はテロリストと同じだ」という文言が出てきます。
ある意味でそれは正しいのかもしれません。物語の中では否定されていますが、現代のスーサイドボマーを生み出したのは、この時の日本があったからではないか、と考えるのも自然な流れです。
おそらく、狂信的な宗教信者であろうとも死は恐ろしくてたまらないものなのだと僕は考えます。

この作品の結論としては「戦争根絶」ということになるんでしょうが、果たしてそれは本当の意味で言っているのでしょうか?

人間が生きてきた歴史の中で、戦争が無い時代というものはありません。
今この時、この文章を読んでいる間にも、戦争は続いています。
宗教の違い。思想の違い。人種の違い。
おそらく世界中の人間が声を大にして戦争根絶を叫んだとしても、戦争は無くなりません。

争いは続きます。おそらく永遠に僕たち人間は戦争を続けるのでしょう。

「永遠の0」は宮部久蔵の主観ではありません。
この世界で生きている人間全員が、最期に目にするものです。
それが幸せなものなのか、残酷なものなのか、様々な「0」が存在します。

「0」。
それがやって来る前に、後悔のない生き方をしたいものです。
幸いなことに、僕たちの世代はそれが許されています。

悔いの無いように生きろ。

僕はこの作品から、そういうメッセージを受け取りました。

なんか、もう言わずもがなな状態になってしまったので、レビューはここら辺で終わりにしたいと思います。

「あなたの人生は幸せですか?」

(´;ω;`)

イラストを添えろとのことなので、一枚の落書きを乗せます。

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